彼は熊本の人で、お正月には甘く小さく種のあるみかんがダンボール一杯届いたのを覚えているが、横浜に根を下ろした人である。横浜の地場産業ともいえる絹の夢の一端に加担した御仁であった。
祖母の自慢話のひとつに、弥生町あたりの御茶屋に泊まりこんだ祖父に裏口から着替えをさしいれた、というのがある。背も高く風貌も憎からぬ祖父の姿に花を添える様な逸話である。
幼い私はこの祖父に手を引かれ、いろいろなところへ供をした。生まれつき足が丈夫で、放っておけばどこまでも歩いていってしまうような子供であったから、なおのことだったと思う。二つ年の違う妹は美人でもてはやされはしたが弱かったし、叔父の子供たちは、もっと後の生まれである。
帽子を被り、重いとんびのコートを羽織った祖父は孫の手を手首からしっかりつかむ。よそからはほほえましくも見えなかっただろうが、あの暖かい大きな手に守られた安心感はつい最近の感覚のように脳裏にある。
お前だけと言われても私が望んだわけではない。何も解らず、ただ享受するだけだった。
祖母が、風呂上りの私にあせしらずをはたきながら、ごぼうの白和えと評したほどの色黒でけして美人の子供では無かったし、生来のぼんやりであったにも関わらず、幸せな子供時代を過ごした。