如何物食い

遊び人の行き着く先みたいな意味もあるみたいだが、今日の晩酌の当てに南京街へ出向いた折に買っておいた皮蛋(ぴーたん)を食べたのでその辺で思ったこと。
特別珍妙なものを好む方ではないが皮蛋は好物。琥珀色の透明な白身部分もねっとりとした黄身部分のオリーブグリーンのグラデーションも色彩が素晴しい。おおよそ食べ物にあるまじき色をしているが味のほうも他に換わるものを知らない。
昔中国の農村で家を建てるときに飢饉に備えて壁にアヒルの卵を埋め込んだのが起源だと聞いたことがある。調べたわけではないので正しいかどうかは解らないのだが好物に逸話があるのは嬉しいことだ。
この皮蛋も昔は皮を剥きたてはアンモニア臭がきつくって少し擱かなければ食べられないものだったのだがそれが反って逸話を身近に感じさせていた。貧しい農村の飢饉を思うには余りに幼かった昔、祖父のひざの上でくさや、海鼠腸、海鼠、酒盗などの酒の肴を分けてもらいながら覚えた味の記憶。

大人の味がわかるかというと羊が嫌いなように野生の味は苦手かもしれない。いかに高級であってもジビエは喰う気になら無い。食す前から獣臭が頭の中に充満してしまうからだ。

蜂の子。信州あたりで手に入る大きいやつではなくミツバチか何かの蜂の子で、よく遊んでくれたやんちゃな叔父が山から取ってきた蜂の巣から楊枝で幼虫を取り出してバターで炒めて食わせてくれたのが甘くて香ばしくて旨いというのが記憶にこびりついている。実際今お茶請けに出されても食する気になるかといえば微妙だが一風変わったこの人の愛情が無ければの味覚かもしれない。子供は飲んじゃだめのコーヒー、顔を顰めるジャズのレコードなど学校へも行かない歳で味わえたのは彼のお陰だった。