八月

最早四日。

八月は丸ごと夏休みの中にあって、すべてを自分の責任で管理しなくてはいけないからなのだと思うけど、学校から解放されて長いのに、いまだにそんな感覚があって焦る気分になる      一日のツイッター拙発言

葉月端の日は自由について考える。軽くだけれどね。それも四日もたつとずいぶん薄れる。何か書こうと思ってずいぶんと生意気なことを考えていたのだが。。
自由自由と自由をモットーとする学校で中高時代を過ごしてしまったせいもあるのかもしれないが、未だに自由とはと改めて考えてみてしまうのだから教育の成果がまるでなかったとは言えないともない。ここで言っている自由というのはfreedom責任を持って何かをすることに障害はないという、責任という紐付きの自由のことだった。制服に真っ赤なセーターを羽織っても、頭にパーマをあてても𠮟られない、そんなことではないだろうという何処か気持ちの悪さを抱え続けた記憶。
人は生まれた環境、親や時代を選べない。死ぬに至る病も場所も特定することだってできない。だからと言って個々に拘束のない自由を心のままに享受する事ができる人間がどれほどいるだろう。あらゆる哲学が自由を考えるうえで派生していったのだろう。哲学とまではいかなくても年に一度は思考のループをたどって迷路をさまよってみるのも悪くはない夏休みの過ごし方なのではないだろうか。