暫定小品

前にあの人物と出会ったのは何時だっただろう。ずっと考えている。それは今年の年明けに始めて立った市で。。
祖父に手を引かれて出かけた氏神様の秋祭りでのことだった。足取りもしっかりしてきた子供はこの年の盛夏、五つの誕生日を迎えた。祖父母から祝いにもらった真っ赤な鼻緒の雪駄をほとんど履きどうしのようにして走り回ったせいでよく日に焼けた手足は固く締まって丸く、美人ではないが愛嬌のある大きな笑窪が愛らしい。
夕暮れから夜にかけての外出に興奮気味の子供は、晩夏の夕闇が迫ると同時に、次々と灯されてゆく屋台の明かりに目も心も奪われて祖父の手を放してしまった。生まれて初めて肉親の視界から離れて迷子という立場に置かれた訳なのだが、不安や恐れの記憶はない。ただたくさんの大人に囲まれた幼児の視界は今でもうなされる材料になる程、圧迫感と息苦しさの記憶として残っているが。
人の流れに沿って流されてゆくしかない中、ふとさらっとした清々しい空気がながれ、ふわっと宙に浮く気がしたかと思うととても優しい目があり、ひと時、周りの雑踏が消えたような気がして安堵感に包まれた。気が付くと少し人波からそれた、ふうせんヨーヨーの生簀の横に立っていて、子供は程なくして無事祖父の手に戻ったのだった。
その人はあの時の儘の目をしていた。緑色を帯びた漆黒の瞳は今も喩えようのない優しさをたたえ。何故直ぐに記憶の扉が開かなかったのだろう。。。その姿が直視できぬくらいの異形であった為かもしれない。始めはそちらの衝撃のほうが大きかったから
欧羅巴の短編小説に、神が籟者の姿を借りて現れる話がある。あれは聖者の資質試験みたいな話で嫌いなのだが、このようにして人の世に紛れておられるのかもしれない。イメージが重なり思い出した。願いも聞かなければ、救いもしない。ただ見守るだけの神なら信じられるかもしれないが。。となれば信心する人はそうはいますまい