静嘉堂文庫美術館へ

週末、静嘉堂文庫美術館の「サムライたちの美学」を見に出かける。タイトルが癪に障る。日本のダンディズムとでもしたらいいものを。まあそうであっても気に入りはしないだろうが。。。
展示の大半は抜身の刀剣である。そしてそれは期待していた以上のものだった。刀を支える台に極上の目の積んだ晒が掛けられ、一切の装飾を除いた刃が三十振り近く、壮観である。一振り一振りその鈍色のとろりとした金属の質感を堪能する。
日本刀に用いられる鉄は玉鋼または和鋼といい、砂鉄をとかし鍛えぬいた鋼である。その製法は公表を嫌うようでほとんど見ることはできない神事のようなものであるらしい。
春霞のかかったようにとろける様な反射光を現代の光源なんかじゃなく、月明かりもしくは蝋燭の炎のもとで鑑賞できたなら。。危険である。世は世なら辻斬りでお縄かもしれない。
古いもので南北朝時代・桃山のものもあったが、江戸明治の物も最高のものだから遜色があまりない。ただ、今に至るまで丹念に鍛え研ぎなおされている分、反射する光の具合が妖気を帯びているようにも見える。
かつてこの身を裂き、魂を断った刃がこの内にある。そんな幻想が頭をかすめ、その晩は微熱を出した。 
拵えもあった。鍔や鞘、小柄、印籠。いろいろあったしたいそう美しくもあった。眺めもしたがまるで記憶にない。

京都清水三年坂に明治期に活躍した金工・他工芸作家の精緻極まる作品を集めた美術館があって一度見にゆきたいと思っている。本阿弥勝義「郡鶏図香炉」とか
本阿弥勝義という人はもとは刀の飾り物の職人だった。こういってしまうのは曲解しすぎかもしれないが、あの抜き身の刀の異様な美を見るにつけ、あれを装飾するにはなまじっかの技量ではできないとおもう、刃の鋭さに対する信仰のようなものが職人を突き動かして、後世に追随を許さぬ作品を残させたのではないだろうか。本阿弥勝義などは刀の妖気に突き動かされた最後の人であったのではないだろうか。
久しぶりに空想の翼が広がっていろいろとんでまわってしまった