余韻

古筆を内容もわからぬまま見てゆくと、ぐっと引き込まれるような感覚を覚える筆がある。この人格好きだな、とかこの感覚の持ち主には同調できるとか、ちょうど良い言い方が思いつかないのだけれど、そんな感覚にとらわれて思わず立ち止まって見入ると、ふわりと幽かな薫香を感じ、去りがたい場がいくつかあった。
貴族の名筆にはどんなにうまくとも媚び諂いの影が差すようなところが見えることがあり、天皇の筆にはそれがない。歴史が波乱の人生を伝えていてもである。備わった品というものの所為なのかなとか思った。
字の手というのは先天的な要素も多いと悪筆極まる私なぞは思うわけなのだが、大隈重信の様な偉い人でも筆には負い目があって、自筆のものが今にほとんど伝わっていないと聞いた。意識的に残さないようにしていたらしい。また東慶寺水月観音の横にある、鈴木大拙の手になる「水月」の書は、稚拙にさえ見える素直さに引き込まれるような魅力がある。
あらゆる時代の残るべくして残ってきた肉筆が時を超えて今ある者と響きあう妙を何とか伝わるように書きたいと思ったが、むつかしい。かえって消化不良になったかも