昨日札幌ハーフマラソンを見ていて気付いたことがある。
元来、スポーツを見るのもやるのも嫌いだ。自身の運動神経が鈍いということもあるのだが、昨日はテレビのチャンネルを捻るのも消すのもかったるく、見るとはなしに見てしまったのだ。
トッップを走るエチオピアの選手の姿が美しい。長い足に小さな形のよい頭、お国では子供が勝利を祈っているという。彼女は一等でゴールした。後に日本の代表が続いたのだが、勝利者のインタビューの影で泣いていた。カメラもその姿を狙っていたのだろうが、本人は見られたくなかったに違いない。ここでもマスコミは武士の情けも知らない下衆だった。。。
私の胃は疼いた。順位を争い、タイムを争う。超の付く負けず嫌いの争いだ。どのスポーツでもそうなのだと思うが、またそうでなければ強くは在れない。が、ぎりぎりが顔や姿に現れると私は引いてしまう。こちらまでその切羽詰った感覚を押し付けられるように感じていたたまれなくなるのだ。
エチオピアの選手には子供がいる。ベルギー(?)のシモン選手も子供がほしいといって一線を退いていると聞く。子供云々を言っているわけではない。日本の選手から余裕というものが感じられないのだ。私が楽しんで観戦仕切れない理由も其処にある。
古代ローマルネッサンスの彫刻にもあるように鍛え上げた肉体は美しい。神をも模倣する。だから精神も美しくあって欲しい。それはオーラとなって人を覆う。