上野へ

ボストン美術館展を観に出かけた。平日なら少しは空いているのではないかと思って期を狙っていて、朝から雨の昨日、すわと。。。空いているうちだったんだろうな。あれでも
やはり、修復の考え方の違いは期待していたような形で表れていて、ある意味、興味を満たす目的は満足のいくものになった。
それにしても回覧順で蕭白を最後に据えているあの演出は日本側のものであろうか。私的には導入部の重みで蕭白なんざ吹っ飛んでどーでもよくなってしまった。。。
以前、根津の『祈りのかたち展』で見たのと同時代平安の仏画は(10〜12世紀頃)一歩踏み込んで洗われ、鮮やかに祈りの対象としての意味合いも蘇ったかのような姿をしていたし、仏像もまた目映い光を放ち、本来の聖としての意味合いをも修復されているようで、清々しくおわした。
明治になって武士の世が終わり、政治の権力をになった人々が犯した過ちにより海を渡った佛たちが、国内で中途半端に修復され保存されている佛たちより生きて見えた。何か、今の世の混乱が間違った土台の上に立っているからであるような気さへして悶々帰ってきたのだった