日曜美術館

何週前のだろう、未視聴のままになっていた「磯江毅 写実考」を見る。
あえて見なかったといおうか、よくは知らない作家ではあるが、細密の絵というのがなんとなく解ってしまうので回避していたといったほうが近い。ましてや、53歳という年齢で数年前に逝ったばかりの人であるから未だ悲しみが残っているようで躊躇していたというのもある。が観ないままにしておくとますます重さを増すし、思いをはせるにはよい時期でもあるし
図鑑画を少し齧った位で解るというのは烏滸がましいのだが、制作に没頭する無我の境地の気分の良さを少々知ってはいるので、写実の自己満足に留まってしまいがちな罠の様なものを制作側から懸念する観方をしてしまうというか、移入し過ぎた見方をしてしまうというか。。
私の師は、磯江がスペインで習得したマンチャとかスフマートの技法をやっちゃダメと教えた。何故ダメかというとデッサンにおいて刷り込みぼかすということを初めから覚えてしまうとそれを小手先で誤魔化すといということに使い、書き込んで追及するということを疎かにする危険があるといいたかったのだろうと今にして思う。要は凡人が初めから出会ってはならない技法ということなのだ。
また、写実を極めるということは写実ではなくなってしまう。物質を主観を抑えて有りの儘に写すという行為は持続が難しい。どうしても主観が入り幻想的な表現へ流れてしまい、その抑えが効かなくなるのだ。主観が入ると何故幻想的になるのかは解らないのだけれど。。幻想、人が何かを極めようとしたときに必ず陥る魔界の様な混沌の世界とでもいおうか
絶筆は曖昧な幻想世界をはっきりと写実としてとらえたもののように見えるのが印象的だ。